NAME : ストッパー
TIME : 2005/01/23 (Sun) 02:57
「随分と懐かしいものだな……」
久しぶりに歩んでみた。昔は毎日通った、母校まで続く長い長いこの坂を。
昔といってもあれから3年しか経っていない。しかし、時の流れは思っていたよりも随分と速く流れていて。
まだ自分が高校生だった頃の青い記憶。クラスメイトとの何気ない日常。
それが今の彼にはとてつもなく懐かしく、また羨ましかった。
「言ってることが爺臭いぞ」
思いに耽っていたところを、柔らかい口調で現実に引き戻される。
いささかムッとしてしまう。間髪いれずに言い返そうかとも思ったが、周りには夏期講習を終え、高校から出てきた後輩達が何人もすれ違っていくこの状況ではそれもできない。
今の言葉は無視することにした。
数ヵ月後に訪れる受験のことを憂いてだろう、すれ違いざまに彼らの口から聞こえるのは不安や愚痴など、後ろ向きな台詞ばかり。
「あたし達も、受験生の頃はあんな感じだったのかな」
久々に高校に行ってみたい、と言った自分の後をついてきた幼なじみが。
それとも抵抗はあるが、今は恋人と呼ぶべきなのだろうか。
彼女もまた懐かしさを含んだ口調で、重い足取りで坂を下りていく後輩達を眺めている。
それを見て、少しずれたメガネの位置を定める。
「爺臭いんじゃなかったのか?」
「……っ!」
見えないが、きっと自分は勝ち誇った表情をしているのだろう。
悔しそうな表情で彼女がキッと睨んでくる。とは言っても、プゥッとほおを膨らませているところを見ると、本気ではないようだが。
「う、うるさいなっ」
黒光りする艶やかな髪が、流れて揺れる。
顔を背けるその様が普段の彼女と随分と違って、少々幼く見えた。
重なる。
どんなに年が過ぎていっても。互いの立場が恋人同士になっても。
そしてきっとこれからも。
彼女はずっと、僕が憧れた美コちゃんのままだ――――
高校を卒業して、県外の大学に通うために一人暮らしを始めて3年が経って。
自分の隣に、『恋人』である彼女がいることに実感が沸かないと感じてしまうのは、昨日今日に始まったことじゃない。
「周防」
「ん?」
名前を呼ぶと、無邪気で穏やかな表情を惜しげもなく、自分だけに覗かせてくれる。
気付かなかった、ずっと。
彼女と一緒にいることが己の中で、当たり前のことだったからかもしれない。
家は隣でクラスも同じ、放課後や休みの日も道場で顔をあわせる日常。
それが当然だった。
だけど、いざ故郷から離れて新たな暮らしを営むうちに、時折住み慣れた町が恋しくなることがあって。
その時、一番最初に会いたいと願い、思い浮かんだ顔は親でも友人でもなく。
とめどなくあふれ出す感情を、苦笑と卑下を繰り返すことで誤魔化す毎日。
それがどうにも苦しくて。
衝動から胸を掻き毟ることだって、そのうち珍しくなくなっていった。
「一つ、聞きたいことがあるんだ…」
「聞きたいこと?」
互いに、歩みを止める。
認めてからは早かった。
これで、煩(わずら)ってしまったのは何度目だろう。
久しぶりに実家に帰って、彼女に話しかけようとして幾度も躊躇した時。
自失するほど愕然としてしまった。
もう、自分が彼女を幼なじみとしては見ることが出来ないことに、気付いてしまったから。
抱いた感情は既に、青く幼い慕情へと変貌を遂げていたから―――――
桜の花弁が散りゆく歩道で。
彼女を抱きしめながら想いの丈を真正面からぶつけた時のことは、鮮明に覚えている。
告げると同時に、その時の彼女がポロポロと涙をこぼしながら。
しゃくりを上げて、弱々しく頷いてくれたことも。
忘れようはずがない。
そう、気付いてからは全てが早かった。
「とても重要なことなんだ」
だからこそ常によぎる不安もある。彼女の、自分への想いがもしかしたら。
離れて暮らしていることで、変わってしまうんじゃないかという、大きな不安。
そしてそれとは違う不安が、もう一つ。
怖いんだ―――
本当にお前が、僕のことを思ってくれているかどうか――――――
「……」
無言のまま彼女は目を見開く。発した言葉の意味が、あまりに意外だったからだろうか。
いたたまれなくなって、顔を逸らしてしまう。
向けられた視線がとても苦痛に感じるのは、きっと気のせいじゃない。
校門から絶えず現れる後輩達の人波は、弱まってきてはいても決して途切れない。
二人きりでないことが、唯一の救いだった。
「……じゃあさ」
思いつめたような声色が、耳を貫く。
無意識に視線を戻すと、儚く寂しげに潤んだ瞳がそこにあって。
「お前は……どうなんだ?」
「僕は……」
聞き返されるとは思ってなかった。一瞬だけどもる。
だけど、答えは決まっている。
「僕は…言える。お前のことを……誰よりも強く想って……っ」
途中言葉を遮られ、最後まで紡げなかった。
いつの間にか、頬は彼女のその透き通るような両腕に包み込まれていて。
唇に跳ね返る柔らかい感触と、自分のものではない緩やかな味。
突然、だった。
そのことに気付いた時には、もうそれは離れていて。
「あたしも……だよ」
心臓が勝手に、加速する。
頬を包んでいた彼女の腕も、名残惜しそうに宙を彷徨いもとの場所へと戻った。
「花井……」
言葉はいらない。最初から。
もっとも、恋愛に疎い彼女にとっては珍しく積極的な行為に、既に自分は参ってしまっていたのだが。
「ホラ! もうすぐだから走って行こうぜっ!」
言いながら彼女は、腕を取って前を向いて坂を駆け始める。
揺れる黒髪の間から見える耳が、ひどく赤い。
赤くなった顔を見られたくなかったのだろうか。そんな態度が随分可愛く思えた。
つられるように自分も足を速める。
ふと、道の反対側を歩いていた一人の女性徒と目がかち合った。
その娘もまた顔を赤く染めていて。その小さな手で大きく開いた口を塞いでいる。
どうやら、今の瞬間を見られてしまったらしい。
ついつい笑みがこぼれる。
それは、ずっと胸に引っかかっていた不安が取り除かれたからでも、唇を繋いだ瞬間を見られてしまったことによる照れ隠しでもなく。
これ以上ないくらい分かりやすい態度で答えを返してもらったから――――
息が切れ始めたところで、ようやく矢神坂を上りきる。
屈んで息を整え、そしておもむろに二人は視線を上げた。
そう、空を切り裂くようにそびえ続ける、懐かしき学び舎に――――